deeppurpletx blog

古代史とメダカ

古代の民の目線で考える。

弥生時代の民は何を考えていたのだろう。

先ずはご飯を食べること。稲作が出来るなら、米を育てる。野菜を植えて育て収穫する。魚や貝を採ってくる。山へ薪を取りに行く。水を汲みに行く。

食事を作って家族やみんなとご飯を食べる。

技術のある人は、機織りをしたり、籠を編んだり、土器をやいたりしたんだろう。

もちろん政治なんかは考えるはずもない。気候がおかしくなって野菜や果物、食糧が採れなくなれば神に祈る。または王様など力の強い人がいれば陳情する。

王様たちは、農地を開拓とか水利を考える。人口が増えれば土地が足りなくなる。良田を求めて戦になるかもしれない。

戦になれば農業は止まるし、人が死に働き手が無くなる。感染症が起き、余計に人が死ぬ。

そのような時に卑弥呼が現れたのかもしれない。戦では何も変わらない。戦をやめて卑弥呼に天候が回復することを神に祈ってもらう。

筑紫には良い土地があまりない。東に良い土地があると聞き、若い人達はそこへの移住を考えたかもしれない。

それが河内湖だったとすれば。

 

 

 

 

古代史を考える

邪馬台国時代の人々は何を考えて生きていたか?

  土地の所有がどうなっていたか分からないが、みんなで水田や畑で耕作をしていたことは間違いない。大きな遺跡の多くは海岸沿いや川沿いに存在した。

野菜だけでなく、魚や貝も採れる。そして舟を使って輸送も出来る。交易にも便利だろう。

家族が出来れば食糧もたくさん必要になる。

八岐大蛇先生の言われるように、耕作地がなければ大国にはなれない。

例えば尾張の朝日遺跡の場合、大きな川に挟まれて耕作地が狭くなったとか、邪馬台国の時代には朝日遺跡が縮小していたらしい。

人々はどうする?新たな土地を探すのではないだろうか?彼らが鈴鹿名張を抜けて奈良へ向かったとしたら。纒向遺跡はそれほど遠くはない。纒向遺跡尾張の土器が多く見つかる理由はそこにあるのではないか。

そのような考え方をされる人がいるらしい。

人は食べなければ生きていけない。食べ物を与えてくれる人について行く。人は食べるために移動する。

これが基本じゃないだろうか。黄巾の乱の頃、寒冷期に入り食糧が足りなくなったので人々は張角についた。

日本も気候変動の影響を受けたとすれば、人々は新たな土地を求めて移動したかもしれないし、それで戦になったとも考えられる。